6月29日
あれよ、あれよという間に今年も半年が過ぎてしまいました。いいこと、そうでもないこと。その全てが私という綾をなしてゆく。
紬(つむぎ)は屑繭や真綿などの糸で織られ、生糸から作られたものよりも太く、節がたち、ムラがあります。だからこそ独特の趣きがあり、着込むほどに味わいが増し、着る人とそのものになってゆく。そんな紬が大好きです。どこかとても「人間らしい」気がするからでしょうか。
もっと若いころ、何かが欠けているのがイヤだった。できないのがイヤだった。いつも完璧、あるいはそれ以上を、自分にも周囲にも求めていた気がします。今も向上心を放棄したわけではありません。けれど、完璧でないからこそ持ち得る強さ、優しさ、暖かさ、そして無限の可能性に惹かれます。
今朝の朝日新聞に細馬宏通氏による《「やり直し」こそが会話》という記事が載っていました。人の会話の中には「云い間違い」があるのと同じように、動作の「やり間違い」もあるというのです。そしてこの「やり間違い」は単に動作の修正ではなく、言葉と動作の組み合わせを調整しているそうです。
『もし、完璧な言葉や動作しか許されなかったとしたら、わたしたちの会話はあっという間に途絶えてしまうだろう。やり直しを受け入れ、お互いを絶えず修正する能力もまた、人の会話の優れた特徴なのだ』 (記事から抜粋)
言葉は人の行動を。行動はその人の生きる姿勢を支える。そしてそれは、その人そのものになってゆく。ならば人間は失敗や間違いの中にこそ存在し、輝けるのかもしれない。バカで臆病で足りなくて、毎度々々やらかして、傲慢で、性懲りも無く反省して、必死でお互いに関わろうとして、がむしゃらでカッコ悪くて、それこそが人間なのかもしれない。どうしようもないけど憎めない。不完全で愛おしい。
つくづく世の中に嫌気がさすときがあるけれど、それでもどうか、いつまでも人間を好きでいられるよう願うのです。紬糸のように、ゴツゴツ、節がたち、生糸のようになめらかで雅やかではないかもしれないけれど、暖かくて丈夫で、一生大事にできる「人と人の綾」を作ってゆけたらいいな。
明日、6月30日は夏越しの大祓。生活の中で知らず知らずのうちに犯した罪や穢れを祓い清める日です。誠の心に帰って正しく生きることを願って茅の輪をくぐったり、形代(かたしろ)を用いて罪穢れの消滅を祈願します。
今年も上半期を無事に過ごせたことを感謝し、下半期に向けての誓いを新たにします。
